昭和44年11月1日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子から難しゅうする、三年五年の信心ではまだ迷いやすい、十年の信心が続いたらわれながら喜んでわが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」 大変これはまあ解釈に苦しむと言うか、まあ難しい御理解だと思いますね、「信心はみやすいものじゃ。」と。
「その日その日のおかげ、を受けてゆけば立ち行こうが。」と、「みやすう信心をするがよいぞ。」と、後にも先にもこの「みやすう」という、言葉を使うておられますが、その中はどういうことかと言うと、「われながら喜んでわが心をまつれ。」とこう。われながら喜んでわが心をまつれれるというような、大変そう簡単に、な、ことではなくみやすいと思われませんが。
われとわが心をまつれれるようにならせて頂くまでが、やはり難しいんだと思うんですね。そこまで信心を頂いてまいりましたら、確かに信心がみやすいものになるだろうとこう思いますね、「その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。」ということでもです。これは毎日誰だって、その日その日が立ち行きよりますからね、しかしその毎日毎日の立ち行きが実を言うたら、楽なことじゃないのです。
ですからそのその日その日のおかげを受けて行くと言う事は、「はぁ今日も神様のお繰り合わせの中に、今日一日が、おかげを受けた」という実感、そういうその日その日だと思うんですよね。昨夜も、月のお終いの日は、夜の御祈念に合わせて、一月のまあ、御礼を申さして頂きます、段々この頃、その事が分かりまして、昨日は、お参りもだいぶん(?)ございましたが。
本当にあの、不思議な不思議な、神様のお働きの中に、この月も、とても大変難しい月でしたけれども、まあ一月を無事過ごさして頂いたと、いうようなお届けが、幾人もございました。その日その日がということ、その月その月がということにも言えるんです、神様のおかげを頂かなければ出来ないという実感ですかね、経済の上にも、色々な意味で、神様のお繰り合わせと思わなければおられない。
それがやはりあの、その日その日が、という。昨日もそういうお届けをなさった方があります、最近息子さんが勤めに出ておりましたのが、勤めを止めましてから、自分の家でまあ細々仕事を続けております、ですから今までは息子さんが給料を持ってきて、まあその息子さんの給料だけで立って行くと思いませんけれども、まあその給料で半月間は安心が出けとったっち言う(笑)。
だから後半月のところを真剣に神様にお願いすれば、まあ良かったんですけれども、いわゆる勤めを止めさして頂いたら、まとまった言わば給料というものが入ってこないわけです。それで給料を持ってきてもらうと、十五日間はもう言わば安心しておれるわけ、「はぁこのこのお金で十五日間は出来る、やって行ける」という安心がある、それで十五日の事をお願いすればお願いして、まあおかげを受けてきたんだけれど。
最近はそうではなくて、もうその日その日が白真剣なんだ、どんなに始末倹約いたしましても、家族も相当、何人になりますか、五人ですか、の家族構成ですね、ですからどんなに、まあいたしましても、最低二千円は、毎日の生活費がいるって言うのです。ですからその二千円のおかげを毎日頂いて行かなければ立ち行かんのです、子供が一生懸命働いて、毎日神様のお三宝の上に、二千円づつこう上がっている。
もう本当に今日も二千円、お三宝の上に上がとった時の、毎日毎日のことだけれども、おかげを頂いてというその実感が、あぁもう日々真剣なのである、たまには上がってないことがあるっち、もう真剣に信心にならざるをえないわけなんだ、忘れておるわけでもなかろうけれどもやっぱ息子には息子のやはり色んな事情もあることであろうけれどもです。神様に一心にお縋りさして頂いておりますと、またちゃんとその。
二千円上げとってくれる、もうその時の有り難さ、もうそういう例えて言うならば、日々が薄氷の上をわたるような、まあ言うならばひやひやするような思いで日々を過ごさして頂いておるおかげでです、一日を締めくくらして頂いく時に、「今日もおかげを頂いて」というその実感があるとこう言うのである、私そのお届けを聞かせて頂いてから、本当にあの、そこんところのですね。
例えばその実感と言うものが、私は「その日その日が、のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。」というのは、そういうことだと思うんです、毎日毎日、その日暮らしであっても、生活が出けておると、この世の中のほとんどの人がそれ、もう、出けておるわけですもんね、信心があろうがなかろうが、けれどもその方のように切実でないのですよね、神様のおかげと思わんでもその人の立って、立ち行き夜で昨夜の信話会の時にその事を取り上げてのお話をするんですよね。
「本当に神様のおかげを頂かなければ立ち行かない」という、「はぁ今日もおかげで立ち行きました」という、そういう実感、そのためには今日も一生懸命の信心にならざるをえない、というわけなんだ、してそういう信心がです、例えて言うならば日に二千円しかいらんのだけれども、三千円も五千円もいや一万円も収入があるようになった、時にその実感がです、「今日もおかげを受けまして有り難い」という。
ものになるまでが、私は信心だと思うんです。
言わばゆとりのある生活とでも申しましょうか、ところが人間は喉もと通れば熱さ忘れるで、(?)日々が白真剣、神様に向かわなければおれなかった、誰が一人病気をしてももう出来ない、一日休んだらもう一日が困ると、ですから、健康の上にも様々な事情の上にもです、お繰り合わせを頂かなければ立ち行かんのだ、真剣に健康の事が願われる、様々な問題事情の事だって同じ事が言える。
ですから、いわゆる日々が信心にならざるをえないというその、日々が信心にならざるをえないその信心が、自分の身に心に家庭の中にです、言わば染み込むほどしになってくるところにですね、ならその白真剣な信心というものがです、どう言う事かと言うと、実を言うたらその、難しい水をかかったり、断食をしたりと言う様な事で真剣に神様に向こうとるのじゃない、教えに取り組んで一生懸命だというだけのこと。
昨日朝から頂きますように、所謂実意丁寧神信心なのであるその実意丁寧神信心そのものがです。私の体体って言うか心と言うか家庭と言うか、家庭の中にですね出来る実意丁寧神信心が出来る、もうそれがその一つの型に入ってしまう、所謂金光様の本当の意味での、御信心ぶりというものが身に付いてくる、家に備わってくるそこからですその日その日のおかげというのが、薄氷の上を渡る様な思いではなくてです。
それこそ神の中をわけて通りおるような実感、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと、そういう信心が私は十年と続いたら、われとわが心がおがめれる、ただいたずらに信心が長いというだけでは、われとわが心はまつられない、もう十年も十五年も信心しながら、何かの機会にパッと信心を止めてしまうような人がある、迷いやすい、だからそういう信心では、もう日々がです。
日々が、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う様な信心、そして立ち行くところのおかげを受けていって、初めてわが心が拝めれる様になって来るのじゃないでしょうか。そこまで信心が、まあ漕ぎ付けられますと言うかね、信心が身に付いてまいりますと、信心はもうみやすいものになってくる。信心を言わば「みやすいものじゃが、氏子から難しゅうすると」という事は。
そういう肝心要の実意丁寧神信心と言う様な所に焦点を置かずにです、ただ我武者羅に修行をしたり、我武者羅にお参りをただするだけであったり、これでは矢張り信心がいや、氏子から肝心要の所をそれての信心ですから難しい、信心の楽しさがない喜びがない。お互いに一つそういう信心を、緻密なまでな、その生活の中に、信心が染み込んでくるおかげを頂いて、そういう信心生活を、さして頂いて十年。
神様がもうあの氏子は、もうあの一家はとこう安心して下さる、成程われとわが心が拝めれる様にもなるだろう、祀れれる様にもなるだろう、その頃にはです、私はよしゆとりのある生活を神様から許されてもです、もうおかげを落とす事はないだろう。いわゆる実意丁寧神信心が身に付いてますから。だからその実意丁寧神信心、他の事はいらん、他の事は詳しゅうなる事はいらん。
その事だけに一心にならして頂いたら、信心はみやすいものになってくる、私共の生活からですね、いわゆるその我儘とか横着な心というものを、取り除く事に一生懸命になると、我儘ではない横着ではない私になると言う事がです、矢張り精進なんですよ信心の、お道の信心の。皆さんどうでしょうか、横着である方が楽でしょうか、我儘である方が楽でしょうか、成程その場では横着をしとることは楽のようですね。
せねばならん事をしない。昨日ある人が夕べの信話会に、一緒に入らして頂いて、お届けをしておりますが、「自分の心が助かっておるという事は、もうなんと有り難い事でしょうか」と一日をです、教えに取り組ませて頂いて、昨日のあの丁寧と言う事についての、あのみ教えを頂きましたですね、いわゆる心配りである、隅々に行き渡っての、心使いである、そのことを行じさせて頂いて一日がです。
これだけの例えば今まで十もの仕事が出来ておったのが、言うなら二十ぐらいの、倍もの、言うなら、より以上かもしれません、の御用が出けたのに、きつさもなからなければ。自分だけこんなに、沢山仕事さして頂いて、馬鹿らしいということもない、それがもうこのようにも、有り難くて楽しいものかとういうことを実感したと言うております、心を配ることがもう楽しゅうて楽しゅうてたまらん。
細かいところまで心を配らしてもらう、一日を締めくくった時にです、誰よりも倍もの、なら仕事をさして頂いておりながらです、疲れもない、ただ楽しゅうて有り難うてたまらなかったと、どうでしょうか、実意を欠いで、しなきゃならなん仕事もしない、私がいつも、例に取りますように、手紙が来ておるけれども、返事書かなんばってん、もう良か良かっち言うて先に押しやっとる、なるほど楽である。
けれども、それでは有り難いものも、楽しいものもないのです、その丁寧ということにです、心を配っての、言わば、十分ということよりかね、あの十二分のことが出来るですね、おかげを頂きますと、そのことが楽しゅうてたまらん、嬉しゅうてたまらん、有り難い、だからそういう、実意丁寧な生き方の中にです、嬉しい楽しいという体験を、芯から身に付けなければいけない。
ところが、私共の心の中にまた、そうであることを体験さして頂いておっても、ルーズな心が起ってまいりましたり、わがまま、横着な心が起ってきたりする。それこそ経って、十年間、そしてその実意丁寧が自分の身上になってしまう、自分のものになってしまう、それまでが私は難しいと言や難しいと思うんですよね、そこをまあ倒れ転びしながら十年間続ける、そこに焦点を置いての信心。
そこに私は、人柄も変ってくるだろう、家の雰囲気も変ってくるだろう、金光様の信心はそこんところがです、もう自分の身上になってしまう、そこんところに神様の願いもあるのであり、または、そこのところのおかげを受ける時に、神様も安心して、言わばゆとりのある、まあ経済で申しますならばです。毎日毎日が二千円なからなければ立ち行かん、毎日毎日二千円つづこうやっておかげを頂いていくと。
いうのではなくて、二千円しかいるまいけれども、三千円でも五千円でも一万円でも与えて下さる、このもう氏子になら、その一万円を実意を持って丁寧を持って使うことを、本人が心得てまいります、そこに神様の、安心して、おかげを下さることが出来る、世界が開けてくるんじゃないでしょうか、それが身に付くということが、だから実意丁寧なんだ、信心なんである。
そういう信心がです、十年続いたらなるほどわれとわが心をまつれと、喜んでわが心をまつれと、自分で自分の心が拝みたい様な自分をここに作って行くことが出来る。私共が、本気で一つわがまま横着のない今日一日でありたい、もう本当に心の配られるだけ配らして頂こう、行き届くだけ行き届かして頂こう、そこに楽しめる、そこに喜べれる信心、いわゆる実意丁寧、そういう願いを持って。
そういう修行に取り組ませて頂いて、そういう心で向かうことが、お道で言う信心なんだ。それをみんな合わせて実意丁寧神信心と言うのです、そのですから実意丁寧神信心を身に付けさせて頂く修行をさせて頂きながら、日々神様の間違いなさ、その日その日が立ち行けば楽じゃと仰る。その日その日が、ある意味においては、薄氷の上を渡るような思いを持って神様に向こうて行くそういう。
毎日が十年間続けられたら、なるほど薄氷の上を渡るようなひやひやするのではなくて、そこに安らいだ「はぁ神様のおかげ、働きというものはお縋りさえしておればこのような気持ちで、神様に向こうてさえおればおかげが頂けれるんだ」という確信も段々出けてきて、実意丁寧が自分の身に付いて、家の中にそういう雰囲気が生まれて、おかげを頂かして頂くところに、所謂限りないと言うかね、無尽蔵と言うか、そういう神様がおかげを下さる働きがです、頂きそれをまた現して行くことが出来る。
私はそこんところがですね、信心はみやすいものと言うよりも、みやすいその上に、楽しゅうて嬉しゅうて、信心がいよいよ佳境にいっていくと言うか、そういうおかげを、そういう信心を目指さしてもらい、稽古をするということはそこなんだ、沢山のみ教えが例えばありましても、またそのみ教えを頂きましても、結局は実意丁寧神信心というものをいよいよ本当なものにして行く事の為の。
私はみ教えであると思うんです。昨日朝の御祈念の後に、佐田さん達がお届けをされまして、ここでお父さんが下がられてからおばあちゃんとお母さんと圭介君と三人でお届けさして頂いて、「圭介ちゃんあんたが今朝あの、お夢を頂いたっちいうのを親先生にお届けしないさい」っち言うてから。お母さんが、ね、「昨日の朝あの僕はね、御理解百節をね、今日は頂いた」っち。
「どげな御理解じゃったの」っち、そしたらその誰かがですね。ずうっとそのそれを言うてくれるんですって、「ですから僕はそれを覚えた」っち、「めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂ると言うではないか、生神金光大神は、家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ」というその、声を夢の中に聞いた、「御理解百節を僕は頂いた」っち言うてね、神様の本当の願いというのはです。
それこそ日々が祝いめでたのという、嬉しゅう楽しいという、しかもそれに枝が栄え、葉が茂っていって。しかも親の代よりも子の代と繁盛して行くそういう道を金光大神は教えるのじゃと御理解の最後にです、御理解百節に、言うておられます、「だから僕が大きゅうなったらそういうおかげを頂くためにしっかり信心の稽古を今からしとらにゃいけんね」って言うてお話しました。
ならその「しっかり信心の稽古をしなければいけないね」と、なら金光大神はそういう道を教えるのじゃというその道と言うか、そのことの教えというものは、どこかと言うとです。実意丁寧神信心の道であり、実意丁寧を、身を持って、自分で頂いて行くという、教えなんです、なるほど金光様の信心の生命と言われる実意丁寧神信心ということがです、合点が行きますですね。
ですからそれを身に付けていくことのために、日々精進しなければいけない、それが例えば尻に火が点くような、(ねうり?)な問題って言うか、今日五千円貰わなければ立ち行かんから、一生懸命実意丁寧神信心の稽古をしておる、まだ苦しいちった、けれどもそれがそうして行く内に十年も経って行く内にはです。それが自分のものになってしまう、実意丁寧ということは。
このように楽しいもの、このように有り難いもの、ということが分かってくる、ね、そこに初めて、おかげを下さることが出来る、「もうこの、実意丁寧神信心というものを忘れはいたしません、ですから早くおかげを下さい」、もし頂いたらです、もう人間は得てして、喉もと通れば熱さ忘れるである、私が働いたけんで、二千円で良かつに、一万円も儲かったというような、事になりかねない。
そこを神様はご心配下さるのじゃないでしょうか。ですから金輪際そこんところをです。私共の身上にしていく、信心の稽古を本気でさしてもらい、実意丁寧神信心、いよいよ私共が掘り下げて行けれるほど、はぁこれもわがままであろう横着であろうというようなことがあります、そこんところを詫びて詫びて詫びぬいて行きます、心を配らして頂くということに楽しみを、隅々を。
昨日はその後に、合楽食堂の中村さんがお届けをしておられます、「先生もう長い間こうして椛目からこちらの時代にずうっとこう毎朝お参りをさして頂いて、もうそれでいっぱしの信心のように思いよりましたが、これじゃいかんとこの頃気付かして頂きます、はぁもう福岡あたりからまでもあげんしてお参りしよりなさるって、私共も、ほんな一踏ん張りで、ここへ毎朝お参りすることが出来る。
こんなことじゃぁ相すまんと思うて、最近はお便所のお掃除をさして頂くことを修行にさして頂いております」、言わば隅々の方へ段々気が付くようになってきた、心配りが出来るようになってきた、有り難いですね、そういう風に信心が信心を教えてくれると言うか、習わんでもそうして信心が身に付いてくると言うか、そのことが楽しゅうなってくる有り難うなってくるというおかげをね。やはり自分の信心の上に、段々本当なものになっていくことのおかげを頂かなければならない。
夕べも笑い話のようにして話したことですけれども、今朝の御理解も、隅々の(笑)、隅々のおかげを頂きゃならんからと言うて、隅々のことばっかりをねらってその信心、真ん中、御広前の真ん中んことは全然、その無関心になったんじゃいけない、けれどもちょっと間違えるとそういう形もなりかねない、雨が降るから風が吹くからえらいと思うちゃならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、教えて頂いたから、もう雨の降る日だけ参ってくるという人がある、どういうことでしょう。
隅々だけをキチッと出くるけど真ん中が出けとらんのと同じでしょうが、もうてんで、もう膝から下はビショビショになってから、御広前の畳がジュチャジュチャになるぐらいに、それが有り難うして有り難うしてたまらん、ならそれはあんた有り難かろうばってん御広前は迷惑じゃない、お天気の良い日には参ってこん、雨が降る、日頃しっかり信心の稽古が出けて。
例えば雨が降っておっても風が吹いておってもそれを辛抱するということが信心なのですけれども、雨が降るから風が吹くからえらいと思うちゃならん、その辛抱こそ身に、「はぁ今日は雨が降りよるけんで今日はどうぞお徳を受けさしてもらわにゃならんけん」っち言うて、雨の降る日だけ参ってくるというのではいけない。笑い話のようですけれどもです、まあそういうな頂き違いをする人もあります。
肝心要のところを大事にさして頂いて、例えばなら中村さんの例で言うならです、御祈念にお参りさして頂いて御理解頂きゃこれだけの時間がかかるんだ、だからもうほんなそこじゃから、もうちょいとその便所だけ掃除しに来ると(笑)なるほどそりゃおかげでしょうが、それではいけんのですわね、信心の稽古が本気で出けて、そして気付かして頂くところは、行き届いたところへ心を配らして頂けれる信心が必要です。
ですから大変みやすいようで難しいこの69節なのです、ならそげんみやすいとは思われない、だからそれはみやすうするために、「あんた達のごとそげぇん、こげん忙しかつにお参りせんでん、もう暇ん時参りゃ」といったようなことをみやすうというような風に間違えてはならないということなんです、「自分の都合良か時参りゃ良かでしょうもん」、なるほどみやすい、けれどもそういうような間違いをしてはならないというようなことを今日はお話さして頂きましたですね。
「信心はみやすいものじゃが、氏子から難しゅうする、三年五年の信心ではまだ迷いやすい、十年の信心が続いたらわれながら喜んでわが心をまつれ、日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが、みやすう信心をするがよいぞ」と、ただこう聞くだけ頂いただけでは、本当にみやすう信心、さっきの話しじゃないけども、隅々の方だけ。
雨の降る日だけで良かろうような感じの御理解ですけども、決してそうではないということを分かって頂きたい。そして本当にみやすいものにする、そのことが難しい、それは実意丁寧神信心が身に付くまでが、難しいのであって、その実意丁寧神信心が身に付いた、自分の身上になる、そこから本当はみやすい信心が生まれてくる、といったようなことを申しましたね。
どうぞ。